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オーストリア南部鉄道(オーストリアなんぶてつどう。ドイツ語:Österreichische Südbahn、英語:Austrian Southern Railway、スロベニア語:Južna železnica)は、オーストリア連邦鉄道の鉄道線のひとつ。路線番号は500。 1841年に設立され、オーストリア帝国(のちのオーストリア・ハンガリー帝国)の主要路線として機能し、1923年までウィーンとトリエステの間を運行した。 現在において「南線、南部鉄道(Südbahn)」という言葉は、ウィーンからブルック・アン・デア・ムーア経由でグラーツまでと、およびウィーンからスロベニア経由でトリエステまで行く路線を指す。また、歴史的に不正確ではあるが、クラーゲンフルト、フィラッハ経由でタルヴィージオまで行く路線に時々使用される。 ==歴史== 産業革命と来たるべき工業化時代の需要を満たすため、アドリア海と首都を結ぶように鉄道は敷設された。すなわち、オーストリア帝国唯一の大規模港湾が存在するトリエステとウィーンを結ぶことである。 工事は1839年に始まった。1842年、ウィーン南駅―グロッグニッツ間がウィーン・グロッグニッツァー鉄道会社(Wien-Gloggnitzer Eisenbahn Gesellschaft)という会社によって運行され、続いて1857年にミュルツツーシュラークからグラーツ、マリボル、リュブリャナ経由でトリエステまでが帝国政府によって敷設される。 この二つの路線をゼメリング鉄道が繋ぐこととなる。 1858年に南部鉄道会社(Südbahn Gesellschaft)に売却され、マリボルからクラーゲンフルト、フィラッハ、リエンツを経由してフォルテッツァまで行く路線と共に会社を構成した。 この南部鉄道会社によって、トリエステは貿易量を何倍にも増やすことになった。つまりそれはオーストリア・ハンガリー帝国の国際海洋貿易を向上させ、トリエステは南部中欧で最も巨大な主要港湾としての地位を確立させ、国内ではウィーン、ブダペスト、プラハに次ぐ4番目の大都市として名を馳せた。 また、鉄道はブダペスト、プラハと共にアドリア海沿岸を観光地として発展させるのに重要な影響を与え、トリエステを「オーストリアのリヴィエラ」の中心地にさせた。 第一次世界大戦後トリエステがイタリアへ割譲されたのちに、残りのオーストリア領の路線は1923年に国有化された。 第二次世界大戦中に起点駅のウィーン南駅が戦災で破損し、ようやく再建されたのは1956年のことであった。再建と同時にウィーン東駅と統合された。また、グラーツ中央駅(Graz Hauptbahnhof)も空襲で破壊され、1955年に再建された。 冷戦中のトリエステへの鉄道路線はイタリアのタルビジオを経由した。この路線は1963年に電化された。同様にウィーンからグラーツ、ユーゴスラビアへ向かう路線も1966年に電化された。 今日、南部鉄道のほとんどは複線となっているが、ウェルンドルフ(グラーツの南)からマリボルまでが単線となっている。この部分は近い将来に複線化される予定となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーストリア南部鉄道」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Austrian Southern Railway 」があります。 スポンサード リンク
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